人生の意義

幸福の定義

人生の意義を規定すると、自分のなりたい方向が決まる。

幸福になることが目標であることは間違いない。

幸せは、脳のホルモンがでることで感じるので、いかにホルモンを出すかが重要である。

脳の幸せホルモンとしては、セロトニンドーパミンオキシトシンあたりが挙げられる。これらをバランスよく放出させることが幸せにつながるという考えである。

 

人生改変具体的ロードマップ

 

人生を変えるのは、習慣である。脳の働きを制して、ホルモンや脳をいい状態にするのが大切である。いろいろな習慣を試すことが肝要である。

 

習慣化について学ぶことが人生を変える。

この習慣を使って以下の3つを鍛えることがおおまかな中身である。

体をつくることがまず一つ。

人間関係について学ぶことが一つ

自分のメンタルについて学ぶことが一つである。

 

これらを細分化して一つづつ解き明かしていく。

人生の意義を再考することも必要である。

 

最強ロードマップ

最強になるまでやること

 

1、プリズナートレーニング  筋肉をつける

2、無とストレス対策100    強靭なメンタルをつくる

3、「柔軟性」        姿勢のよさが必要

4、「コミュニケーション能力」当然いる。まずはダイゴのを見る

5、ダイエット        有酸素運動のベースをつくる。

6、それらを支える習慣術   ダイゴの動画を見る。

習慣化の能力も必要

 

今の現状

いま最も自分の中で問題なのが、コミュニケーション能力である。そもそもの幸福度がコミュにケーション能力のなさでかなり失われているようにかんじる。人と話すときもうわべを取りつくろった話しかできないし、そもそも人と話そうという気持ちにならないので、遊びに行ったりする経験が少なすぎる、人間的につまらない状態になっている。努力もほとんどしたことがないので子供部屋おじさん化している。この年になれば大人びたやつらもいるはずだが、子供から抜け出せる気がしていない。今は。その原因の一つがおそらく幼少期から太っていたことと、adhdによる努力ができない体質が大きい。少額性までは、人前にでたり、中央委員会をしたりしていたが、サッカーを少額5年生ごろに始め、運動神経のなさから迷惑ばかりかけて試合で泣くことがしょっちゅうだった、あまりにもなきすぎるので、もうかえれと監督に切れられたこともある。まけずぎらいな一面もあったからだろうか。少額性のときは、すでにぷっくり太っていて足はとんでもなく遅かった。人前に出ることと勉強はできたけどそれは親がやれというからやっていたにすぎないといま思う。親が気分屋な一面もあったし、なんでもやってみろというので親が喜ぶとおもってやっていた。というのは、今思えば本当だろうか。むしろ挑戦する機会をくれたことに感謝するべきなのかもしれない。小学生ながらそれなりに楽しんでやっていた部分はある。人をまとめることが得意だとおもっていて、何かのリーダーにまとめていたら勝ってになっていたのが嬉しかった。また、射的で自分で作った新聞紙を丸めてティッシュの玉をとばすアイディアが採用されたこともあった気がする。わりとそのときからアイディアをだすのが得意というイメージは自分にある。んが、親の話を聞いてそのとおりにしてしまうクセがあるのも確かである。くそだせえ。理由は、自分の自信のなさと自分で責任を取りたくないからである。正直いっておれは自分に自信がない。かなり。それもそのはずである。周りとおなじことができない。だれにも必要とされない、周りと違うので悪い意味でね。自分の判断があってもそれが普通の判断だと確信できない。自信のなさの由来のひとつは、子供のころから基本的に友達はいなかったことにある。本当に一人だったわけではないけれども、小学生のころからそういえばしゃべらなかった。外でワーワー遊ぶこともすくなかったし一時期グラウンドで野球やらサッカーやらしたけどももちまえの運動神経でさっぱり活躍できず諦めぐせがついたのもこのあたりか。とにかく運動できずに太っていて、人としゃべることが少なかった俺は小学生のころからマイナスしかなかった。あたまだけはまだ良いほうだった。なぜ小学生から友達がすくなかったのか?もともとコミュ力がないのか不安になりやすいタイプなのか?おそらく飛んでもなく暗い人間だったのかもしれない。中学生になり、すっかり現実を知ったおれは、人前にでることをやめた。理由は、思春期になり不細工すぎたことと、やっぱりサッカー部では最弱で太っていて自尊心をやられつづけたことと、もっと頭の良いやつらがたくさんいることに気づいたからである。中学1年生のことはまだよかったが、2年あたりから顔が気になり始める。顎が長く目が小さく細いのがとんでもなくコンプレックスで中学3年のころはもう勉強が手につかないくらいである。具体的には、夜な夜な顔のパーツの長さを定規ではかっては、平均とくらべたり、顎をおして縮まないか毎日やっていた。このあたりから人生について悩みだして、リストカットもした。あとは、針を腕に指しながら勉強するというわけわからないこともしていた。結論からいうと何の意味もなかった。顔は変わらず不細工のままだ。痩せてもこれはあまり変わらないだろう。ちょっと愚痴らせてもらえばうちの母と弟は顔が良い。普通より上で間違いない。そういうやつらは勝手にともだちができるし自信がある。そんなんを近くで見せられるとますますいやになる。かおは変わらないのに周りからは遊んだほうがいいよとか彼女できたよとかばっかりになる。いまとなっては付き合ったことないというと驚かれるくらいだし、女は不細工でも彼氏がいて学生生活を楽しんでいてそれを自慢げにはなす。この世は地獄か。。方や俺は、誰ともかかわりを持たないし、もちろん何の価値もないので誰も気にかけない。当たり前だ。もう22歳になった。テレビにでる大人びたかっこいいアイドル達よりも年をとった、なんにもしていないのに。いまの高校生ですら大人びて見える。中身がないと感じる。価値がないと感じる。実際価値がない。運動は相変わらずからっきしで、部活はサッカーをやめようかとおもったが友達?今となっってはよくわからないが小学生のころのサッカー仲間が入るというので入った。下手すぎて先輩に怒られ舌打ちして切れられたり(あたりまえ)、先生にさぼりがばれて帰っていいよといわれ本当に帰って泣きながら誤ったこともある。ダサすぎる。部活をさぼりまくって、結局、おまえにはサッカーではなくて、勉強面などの成績面でサッカー部を支えてくれと言われたのは記憶に残っている。戦力外通告とはこのこと。といっても勉強面でも普通よりちょい上でしかなかった。上には上がいたし案の定努力もできず、親にもなんも努力せず高校を受かったといわれるが割とその通りかもしれない。高校生になった。自分の自尊心は最低値を更新しつづけていた。高校はわりと平和なところで、帰宅部になって無意味な3年を過ごした。女となかよくすることもなく、学校はともかくプライベートでがっつり遊ぶほどの仲いい友達もできない(自分がつまらないから当たり前)ぼっち隠しの友達とでも言ったらいいのかもしれない。結局ほとんど中学の友達が多かった。知り合いレベルではそれなりにいた。でもやっぱり高校を終わってみれば関係が続くのはほんの2,3人だtった。普通にインキャです。高校では、人生の意味について考えまくっていた。高校は、自分が発達障害あdhdであることに気づいて絶望しまくっていた。診断してないので確定ではないけど、他の人とは頭が違う気がする。学年で一人宿題をやらずくそ起こられたり、履修登録わすれたりする。普通でないだけでこんなやつ下には結構いるのかもしれない。高校三年間考え抜いた結果としては、当時の人生論としては、顔が不細工なのは変えられないし、人間はもともと動物であるから見た面のいいつまり健康的と判断できる顔を好きになるのは当たり前で、動物的に劣っていることはあらゆるめんで良くあることで、つまり負け犬なことは間違いない。が、人間社会にはお金というものがあるので、金さえあれば人間の三大欲求は満たせるので、金を稼ぐしかない。また人間の幸福度は相対的でなく、絶対的なので人の幸せがどのくらいかは測れないので、主観で感じる自分の幸せがすべてであるという考えだった。このように書くと今もこの考えは変わっていないし、間違ってないので自分の根底にはこの考えがある。そして高校の受験勉強も全然がんばれなかったが、センター試験で4択で絶妙に良い点をとってしまって、国公立に挑戦するも失敗して滑り止めのfらん大学に行った。県外は金がなく出られず、学費も近くの私立なら払ってもらえるはずが、親の収入が減り自分ですべて学費を支払うことになった。よくよく考えれば詐欺だし、俺は親からもなめられていてfらんに行くことになり期待されていなかったのだと思う。さっぱり人との関わりをしらなかった俺は、大学に行きバイトをせざるを得なくなる。給料はほとんど学費にもってかれて、働いた。とはいえそんなに多くはないが、よわっちいおれはすぐ疲れて、ストレスに負けまくりバイトを始めて全身が痒くなったり、16キロ痩せたりした。結果としてボッチを極めてバイトごときで消費して、筋肉が落ちきり、体重はへったが脂肪のみがのこり、人間的魅力が全くないやつが出来上がった。

コミュにけーしょん

人を動かす

人に純粋な関心を寄せること。それにはほめること。

言葉で要求するよりも、話を聞くと向こうが勝手に動く

 

話を聞く

相手が一番興味があるのは自分

議論を避けること、「おそらく自分の間違いでしょうから

 

依存症

依存症について

はじめに

依存症について調べようと考えたのは、スマホの利用時間が一日13時間であることを発見したときだった。驚きである。就活を終えて、さてこれから頑張るかと思った矢先に、自分は一日13時間もスマホに費やしていることに気が付いた。スマホ依存症に間違いない。スマホを使っている分他のことが何もできないと困ってしまうので、今回依存症について調べた。

依存症の定義

さて、依存症とは実際なんだろうか。趣味と依存の違いはなんであろうか。一般的な依存の定義とは、生活に影響がでるほどにのめりこんでしまうもの、ことである。

しかしながら、この定義は依存についての便宜上の定義ではあるものの、脳内でどのような処理がされた状態を依存というのかについて触れられていないのでさらに詳しくみて、考えていきたい。

依存症のメカニズム

依存症には、二つの種類があるといわれており、それは物質への依存とプロセスへの依存である。物質への依存については、たばこ、酒に代表される物質をとることでドーパミンが出されること、プロセスへの依存は、ネットやゲーム、ショッピングの楽しさに依存してしまうものである。

依存は、どのようにおこるのだろうか

依存の原因は、ドーパミンである、ドーパミンは期待をすると出る脳内物質で、なにかを達成したときにでて人間を気持ちよくするものだ。このドーパミンがでることで、人間は楽しいと感じるので、趣味においてもこのドーパミンはでるし、食事においてもでるので、人間には必要不可欠の脳内物質である。このドーパミンがでる回路が刺激されると強化学習という行為が行われて、ドーパミンが出る=生存に有利と判断されて同じ行動をとるようになり、ドーパミン細胞は、予測より報酬が大きい時に活動を増加させ、報酬が予測より小さい時には活動を減少させる。

ドーパミン強化学習をするかどうか、ドーパミンの放出量がどこできまるかは、まだわかっていない。心理学では、強化と呼ばれる。(省エネ志向の本能に抗うために、ドーパミンが活躍するんですよ。
引用

ドーパミンで脳をダマせば続けられる。医師に聞く「三日坊主の解消法」|新R25 - シゴトも人生も、もっと楽しもう。

ドーパミンが過剰に分泌されることによって、ドーパミンが増えすぎてしまうと、脳がバランスを取ろうとして、ドーパミンの受容体が減ってしまう。すると、依存先でしかドーパミンを感じることができず快楽を感じずらくなる。パレオさんも言ってる

yuchrszk.blogspot.com

依存症のもっとも恐ろしいところが上に述べたドーパミン過剰になり、無気力になることである。では、依存になるかならないかはどこが問題なのか。そのヒントとなるのが、負の強化効果の場合である。現実逃避のために、ゲームやギャンブル、アルコールをすると、つらい状況から、依存により手軽に快感を得て解放されるので、人間にとって価値が高いからという可能性がある。薬物依存症(松本俊彦 ちくま新書)でも述べられているようである。幸福は慣れるが、苦痛は慣れないからである。

そして、依存にはおそらく可逆性がないと言われている(ほんとかな)

 

依存症を治すには、2つ方法がある。

一つが認知行動療法で、認知を変えて、いぞんを解消すること

もう一つが、セロトニンを増やすこと。ドーパミンは本来セロトニンによって制御されているからである。増やし方は、セロトニンの原料であるトリプトファンの入ったたんぱく質をとる。プロテイン可。

朝日に当たる。運動する。腹式呼吸をすることでセロトニンが増える。

 

力への意思の最終的な結論

力への意思というのは、ニーチェが作り出した人間は生きている限りできるだけ高いところに上り詰めようとする性質のことである。

私は、この内容が実際のところどうなのか?ということについて考えた

なぜなら、あらゆることがめんどくさくて努力せずに生きていたので、そもそも努力自体が虚しいものと感じていたし、力への意思がないとするならば、私にとって努力は、まったくもって必然性のないものだと思ったからである。つまり、努力はやってもやらなくてもよく、ゲームしているだけで楽しいならば、一生ゲームしていればいいと考えたのである。

さて、結論として力への意思は存在した。

そしてこの定義は、私の中でこうである

欲に従ったゴール設定により、自然にそのゴールを達成しようとする一連のエネルゲイア的な流れ。

となった。

 

まず、苫米地英人から着想を得たのだが、力への意思には無意識が関係している。

私たちは、無意識で生きているなかのほとんどを処理している。

無意識は超並列的で、我々の行動を強烈に決定づけている。

自分のコンフォートゾーンの外側に、ひとたびゴールを設定すると、無意識が勝手にそのゴールまでの道のりをクリエイティブに見つけてくれる。

やり方を勝手に見つけて努力せずにそうなっていく、。

これぞまさしくエネルゲイア的な生き方といえる。

エネルゲイア的な生き方とは、目標のためにひたすら努力するのではなくその過程を楽しむことで、努力を努力と思わない生き方である。

ダンスの大会で優勝すること。を目標に日々努力するのではなく、ダンスをうまくなりたいと考えて、ただ楽しんでやる。その結果、大会でもいい結果を残す。これがエネルゲイア的な生き方であり、終わりのない目標を達成し続ける永遠に満たされることのない生き方から逸脱した、生き方のことである。

 

ではなぜ自分たちはやりたいと思ってもやらないのか。

この原因に認知のゆがみがあると考えている。

認知のゆがみはある種の思い込みで、現実と違ったことを自分で解釈して、無意識のうちに自分に影響をあたえる。

これは、本能に全く逆らうこともある無意識という強力な人間のシステムの影響である。

たとえば、自殺、拒食症、不眠症。。。である

拒食症を例にとってみれば、少しでも食べたら太る、自分は太っているという認知が、食べるという本来の欲を曇らせて全く食事を受け付けなくなる。

努力できないことも、~できるようになりたいという欲はあるのに、失敗したら恥ずかしい、自分にはどうせできないという認知によって、めんどくさいという感情を持ち出すことで、努力できなくなる。

 

無意識の影響が、食事を受け付けない、めんどくさいと感じるという現実に出てきてしまっているのである。

いつも私は、自然状態に照らして考えることが多いので、そっちでも説明を付けくわえる。人間であっても所詮は動物とおなじであるというベースに立っている。

 

どうぶつであれば、自分の欲求。おなかを満たしたいという欲求にしたがって、やりかたをクリエイティブに無意識で想像する。それは待ち伏せであったり、獲物のいそうなスポットを直観的に見つけることである。

ふと、思ったのが動物にとってはすべてが無意識なのではないかというものである。

動物は言語を用いない。私たち人間は、言語を用いることで意識的に考えることはできる。しかし、一瞬のひらめきのように複雑なことは無意識が考えるわけである。

この二種類の考え方が人間にはあるが、動物は言語を持たないので、意識的に考えることは果たしてできるのだろうか。

人間が言語を用いずに考えたとしたならばどうなるのか?そうしたなら意識はあるのか。おそらくないのではないかと思う。これが事実ならより一層この理論を補強してくれる。

 

無意識が自分の欲求に従って行動を決めるのである。これがそのまま動物の行動の本質であり、意識的に行動する。今日は、ダイエットのために外を走ろう!という行動ができるのは実は人間だけであり、この意思を使った行動の達成率は約50%ともいわれている。

 

たまたま人間が意識的に行動できるだけであり、動物であっても、人間であっても、欲に向かって上り詰める性質があるのは変わらない。力への意思というものは、すべての動物に存在している。

なぜゲームばかりしていてはよくないと言われるのか?価値観についての話

なぜゲームばかりしてはダメなのだろう

ゲームは文句なしに楽しい。最高である。時間を忘れて没頭してしまう。

ゲームをしているときが幸せならそれでよくないか?とずっと思っていたし、

実際、他の趣味と何が違うのか?と思う

案外それは正しいのかもしれない。

価値観とは、生きるための指標ともいえて、価値観に沿った決断をしていくと幸せになれる。

価値観がどのように生まれるかは、生きていくなかで快を覚えたものに付与される。

価値観は、人間の生存本能の中で培われたものであって、快を覚えれば覚えるほど強化学習され強い脳内報酬がでるようになっていく。

 

ゲームは楽しいというのは紛れもない価値観の一種であり、そこに価値を感じるからこそ何百万も課金する人もでてくる。

 

価値観に沿った行動が快を生むわけである。ここで言いたいのが、多様な価値観に触れて、自分なりの価値観を持てば持つほど幸せな時間が増えるのでは?

 

という話。

つまり、ゲームばかりをしているとゲームという単一の価値観しか培えず

現実にでてみれば、人間関係やファッションが楽しめない。車にのっても車が詳しくなく楽しめない。となる。

しかし、車についての知識があって好きな車があれば、車にのるのが楽しくなる

すなわち、幸せな時間が増える。しかも人間は新しい新鮮なものを求めていく傾向があるわけでそこにもマッチする。

多様な価値観を持ち価値観を固めればより幸せになれる。