力への意思の最終的な結論

力への意思というのは、ニーチェが作り出した人間は生きている限りできるだけ高いところに上り詰めようとする性質のことである。

私は、この内容が実際のところどうなのか?ということについて考えた

なぜなら、あらゆることがめんどくさくて努力せずに生きていたので、そもそも努力自体が虚しいものと感じていたし、力への意思がないとするならば、私にとって努力は、まったくもって必然性のないものだと思ったからである。つまり、努力はやってもやらなくてもよく、ゲームしているだけで楽しいならば、一生ゲームしていればいいと考えたのである。

さて、結論として力への意思は存在した。

そしてこの定義は、私の中でこうである

欲に従ったゴール設定により、自然にそのゴールを達成しようとする一連のエネルゲイア的な流れ。

となった。

 

まず、苫米地英人から着想を得たのだが、力への意思には無意識が関係している。

私たちは、無意識で生きているなかのほとんどを処理している。

無意識は超並列的で、我々の行動を強烈に決定づけている。

自分のコンフォートゾーンの外側に、ひとたびゴールを設定すると、無意識が勝手にそのゴールまでの道のりをクリエイティブに見つけてくれる。

やり方を勝手に見つけて努力せずにそうなっていく、。

これぞまさしくエネルゲイア的な生き方といえる。

エネルゲイア的な生き方とは、目標のためにひたすら努力するのではなくその過程を楽しむことで、努力を努力と思わない生き方である。

ダンスの大会で優勝すること。を目標に日々努力するのではなく、ダンスをうまくなりたいと考えて、ただ楽しんでやる。その結果、大会でもいい結果を残す。これがエネルゲイア的な生き方であり、終わりのない目標を達成し続ける永遠に満たされることのない生き方から逸脱した、生き方のことである。

 

ではなぜ自分たちはやりたいと思ってもやらないのか。

この原因に認知のゆがみがあると考えている。

認知のゆがみはある種の思い込みで、現実と違ったことを自分で解釈して、無意識のうちに自分に影響をあたえる。

これは、本能に全く逆らうこともある無意識という強力な人間のシステムの影響である。

たとえば、自殺、拒食症、不眠症。。。である

拒食症を例にとってみれば、少しでも食べたら太る、自分は太っているという認知が、食べるという本来の欲を曇らせて全く食事を受け付けなくなる。

努力できないことも、~できるようになりたいという欲はあるのに、失敗したら恥ずかしい、自分にはどうせできないという認知によって、めんどくさいという感情を持ち出すことで、努力できなくなる。

 

無意識の影響が、食事を受け付けない、めんどくさいと感じるという現実に出てきてしまっているのである。

いつも私は、自然状態に照らして考えることが多いので、そっちでも説明を付けくわえる。人間であっても所詮は動物とおなじであるというベースに立っている。

 

どうぶつであれば、自分の欲求。おなかを満たしたいという欲求にしたがって、やりかたをクリエイティブに無意識で想像する。それは待ち伏せであったり、獲物のいそうなスポットを直観的に見つけることである。

ふと、思ったのが動物にとってはすべてが無意識なのではないかというものである。

動物は言語を用いない。私たち人間は、言語を用いることで意識的に考えることはできる。しかし、一瞬のひらめきのように複雑なことは無意識が考えるわけである。

この二種類の考え方が人間にはあるが、動物は言語を持たないので、意識的に考えることは果たしてできるのだろうか。

人間が言語を用いずに考えたとしたならばどうなるのか?そうしたなら意識はあるのか。おそらくないのではないかと思う。これが事実ならより一層この理論を補強してくれる。

 

無意識が自分の欲求に従って行動を決めるのである。これがそのまま動物の行動の本質であり、意識的に行動する。今日は、ダイエットのために外を走ろう!という行動ができるのは実は人間だけであり、この意思を使った行動の達成率は約50%ともいわれている。

 

たまたま人間が意識的に行動できるだけであり、動物であっても、人間であっても、欲に向かって上り詰める性質があるのは変わらない。力への意思というものは、すべての動物に存在している。